温い滴と泥にまみれて
098:地に落ち、泥に塗れた花のように、いつか私もこうなるのだと
内陸にあるはずのこの設備でも潮の匂いがする。日本は島国であるから潮の影響はありふれる。風はべたつくし外へ放り出しておけば雨曝しより早く傷む。四季折々に独特な天気があって雨も多い。気温の上昇は腐敗を呼んでそれは次第に乾燥や火照りに変わり、その後はまた下降を始めて割れるほど凍る季節が来る。生物を食べる分化があるから食あたりなど病気としてみてもらえない。それは少し辛い。それを判っていながら大抵のものは根拠もなく自分の嗅覚に頼って合否を決めてしまうから厄介だ。卜部は銀のフィルムパックを開けた。密閉タイプで一度開封すれば再密封は出来ない。食べ切りの固形食料を煙草代わりに咥えた。固い。これを胃が弱っている時に食べたら嘔吐した。体は食べないからといって即刻餓死するようなことはないというから二三日抜けばよかった。固形食料は健康な時に食っても不味かった。摂取する栄養とその構成、消費や転化を重要視されるから食べやすさや嗜好性は皆無だ。
ぎしぎし噛んでいると静かな声がした。振り向けば藤堂がいる。普段であればきちんと留められている釦が緩んでいる。喉が見えた。卜部がよじ登っているところまで上がってくる。身軽と言うよりは確りした足取りだ。藤堂は腕力も敏捷性も備えている。獅子というほど重厚じゃないな、豹って感じ。卜部の隣へ腰を下ろして前を見つめる。特に何もない。時間も遅いし展望の都合など考えていない造りだ。風通しの窓から卜部は痩躯に物を言わせて外へ出ている。傾向として地下へ潜ることが多いから息が詰まる。通気ダクトに居ると声が響くし居ると判るのでいつも左側へ寄る。ちょっと逸れただけでずいぶんバレていない。潜んでくる卜部のこの癖を知っているのは藤堂くらいだ。いつもどおりにしていたらあるときいきなり藤堂が顔を出して卜部は転げ落ちるところだったのだ。猫だ猫だといわれる柔軟性と俊敏で事なきを得たが藤堂から長い説教を食らった。通気ダクトの気道から逸れる位置に居座って説教するのだから性質が悪い。周りは誰も気づかないので止めてくれる奴がいなくて閉口した。
藤堂に催促されて卜部が横へ避けると其処へ腰を落ち着ける。藤堂は子供のように投げ出した脚を虚空で揺らす。酒や煙草はやらない。この隠れ処がバレても嫌だし火事や不始末でも起こそうものなら来れなくなるだろうから困る。どぉすか、不味いけど。残っていた固形食料を放ると藤堂はうまく受け取る。崖のように足元の切り立つこの場であっても藤堂は両手を自由に使う。そういう度胸は昔からあるんだよなぁ。藤堂は棒菓子のように固形食料を咥える。口に含んで柔らかくなるのを二人でぼんやり待った。
「うらべこうせつ」
時代がかって仰々しい名前だ。名字も含めて初回から正確に読んでくれたのは藤堂だけだ。字面を見た連中の顔には『とべ』と大書きされていて、下の名前には困った顔をされる。気を使ってくれるものは素直に謝って読み方を訊いてくる。厚かましい奴はあっさりと自分の思いついた読みを当ててくる。しかもその印象が強いのか言っても直らないから腹が立つ。
きれいだな。まぁ一応雪の字当ててますから。そうじゃなくて。卜部はそこで初めて藤堂の方を見た。咥えていた固形食料を指先で弄んでいる。ぽきぽきと折っては短くするのを繰り返す。好きなんだ。なにが? 私が、お前を。それが始まりだったのだ。
枢木ゲンブと藤堂の関係は一概には言えなくてそれはどこかで状況を保つために必要なのかもしれないと罪悪感を薄まらせる。睦み合うような間柄ではないようで藤堂は時折ひどいなりをする。熱い息を吐いては歩くのを止めたり壁にすがったりしては、知らぬ人が来る度に姿勢を正す。卜部の前でだけ藤堂はくずおれる。藤堂の階級と戦績が物を言う部屋割りで運よく個室だ。解錠手続きを教えてもらった卜部が不定期に入り込んでは藤堂の手当をする。軍服は生地が荒くて硬いから内側の状態が早々知れない。それを良い事に藤堂の胴部は集中的な殴打と裂傷をあびている。大量出血しない代わりに後々まで傷が残った。焦げた臭いに卜部が鼻を鳴らすと困ったように笑って、すまない、煙草だよと火傷を見せる。
いつしか卜部が施設を抜けだしては路地裏をうろつくのが増えた。前々から規律が面倒で抜け出していたのが頻度が増えた。時折始末書や藤堂直々の説教も食らう。それでも卜部は藤堂の部屋で待つことより行きずりの路地裏をうろつくのが増えた。口幅ったいこともするし腹の足しにもなる。落ち目の軍属よりよほど好い飯にありつける。それ以上に藤堂に会うのに倦んだ。嫌悪より惑いが。憎悪より無力が。藤堂が怪我を負うたびに卜部は何かを呑み込むことになる。藤堂の方から特に不満や叱責はなかった。出かける時に鉢合わせても藤堂は止めなかった。気をつけて。送り出す藤堂の足音が動かないことだけが判る。
今にも降り出しそうな曇天は重く垂れ込めて煙草や菓子を湿気らせた。路地裏といってもまだ表通りに繋がる場所は健全だ。裏へ裏へと入っていく。そこでは諍いは暴力沙汰になるし、警邏も警備もいない。現金と腕力と機転が物を言い、ありとあらゆるすべての責任は自分の身一つで贖う。卜部はいつも私服に着替えてここをうろついた。軍属の制服はそれだけで身分がわかるし盗まれて悪用されても厄介だ。多少の現金と身を守るナイフ以外に荷物はない。上着の裾を閃かせて卜部は露店を冷やかしては残飯で腐臭のする路地を歩きまわった。疲れるまで歩いてはねぐらへ帰る。寝台に倒れこんで起床時刻まで死んだように眠る。間隔が短いからと出歩かない日は妙に目が冴えて眠れない。怪我をしてもやめない。縄張りを出歩く猫だ。
灼ける気配に卜部は飛び退ると曲がり角の壁に張り付いた。隠そうともしない靴音とある程度の重量がある体躯の間隔。日本人として珍しい長駆である卜部は普通の人と歩くリズムが違う。違うから違いには敏感だ。体格がいいな。親仁か? 女性にありがちな踵のある硬質な音はしない。そっと顔をのぞかせる。大した驚きもなくその人影をやり過ごす。枢木ゲンブ。顔も名前も表裏にかかわらず轟いているはずなのに出歩くなど豪胆か馬鹿のどちらかだ。呆れと慄れに卜部は力を抜いた。ゲンブの方は卜部など景色の一つなのだと気づきもしない。ゲンブの前に黒塗りが横付けした。浮浪児たちが珍しげに眺める一員のフリとして卜部は目を向ける。紅いテールランプを残影させて黒塗りは走りだして闇へ消えていく。
ゲンブの後をたどるように路地を入り組む。全視界視野の感覚が必要な戦闘機乗りとしてある程度反響や音の大小で位置を立体的に知覚できる。見失う位置で細い入り口を見つけた。先は袋小路であるらしく臭いが淀む。周辺の住民は判っているのか素通りするし、通りがかりさえ望めない位置にある。目隠しのように積み上げられたゴミを押しのける。ぐじゃりと腐敗した果物を踏み潰す。ゴミというより汚泥でしかもそれは絶え間なく腐臭をさせる。奥へ入るほどに精の臭いがする。嗅ぎ慣れたそれはちょっとした後ろめたさや不意に戻ってくる理性との惑いを帯びる。建物と建物の間のそこで藤堂が仰臥していた。不用意な増築や建築を繰り返した結果として余った場所だ。藤堂の衣服が散らばっている。まともそうなのを選んで拾う。卜部の方へ頭が向いているから気づいているはずなのに羞恥や怒りや惑いさえない。
ぽつぽつと滴が肩を打つ。重い曇天から飽和した水滴が降り注ぐ。すぐにそれは地面や肩を打つ豪雨になった。鎧戸を閉める音がたてつづけにして閉ざされた空間で卜部は拾った服を携えて濡れそぼった。藤堂は体を起こしさえしないで鍛えられて美しい裸身を雨に打たせて仰臥する。髪が直ぐに水を吸って重くなり額へ垂れてくる。雨の臭いに混じって饐えた臭いがする。目線を泳がせた卜部は藤堂の周りにある吐瀉物と赤黒い水溜りを見つけた。舗装さえされていない土へ染みこんでいく。雨と吐瀉物と体液と入り混じった臭いは鼻を突く。藤堂の灰蒼だけが清冽に卜部を見上げている。鳶色の髪は地面へ融けて区別がつかない。色合いが似ているから境界線が判らない。藤堂の口元は吐瀉物や土に塗れている。吐き出したものを再度突っ込まれたのだろう。その汚れは首や胸まで撫でている。
藤堂の口が動く。うらべ。開いたそばから雨が流れこむようで噎せている。卜部は黙って濡れた服を放り出す。馬鹿馬鹿しい。大丈夫すか。指で頤を拭ってやる。濡れていても藤堂の服だという意識が残っていた。
「…カサなんて上等なもん、持ってませんから」
「要らない」
上体を傾がせる卜部に藤堂も逆らわない。唇が重なる。息を継ぐ間にさえ雨が流れ込んで咳こむ口をふさがれる。藤堂の腕は不器用に卜部を拘束した。濡れ髪を掴まれて少し痛い。藤堂の口からは饐えた臭いがする。地面にキスしてるみたいだ。口をすすぐ水がない。いいですよ、別に。藤堂の裸身が起き上がる。鍛錬と抑圧にさらされて鍛えあげられた体躯は引き締まって美しい。藤堂の体はありとあらゆる無理を呑んできた。意に添わぬ交渉くらいではもう藤堂を揺らすことは出来ない。拒否はしないのだろうと思う。ただ受け入れもしない。上っ面でやり過ごされるのが目に見えた。
濡れた鳶色の髪は重たくたれてうなじや額へ張り付いている。涅色に濁って肌に同化する。凛々しい眉筋やすんなりとした鼻梁。切れ上がる眦は明瞭で睫毛が映える。灰蒼の乳白だけが浮き上がるように見えた。藤堂の指が卜部の喉を圧した。鎖骨の間のくぼみを圧されて息が詰まる。膝を折られて地面へ仰臥する。雨に烟る景色の中で藤堂の裸身だけが煌めいた。雲母引きのように所々真珠のような照りと輝きを帯びる。指先が卜部の釦を外す。ひたりと触れられて不覚にも動揺した。藤堂の感触はあっという間に卜部の最深部に到達する。お前は私を好きなようだな。判るのかよ。体が拓くから。私を厭うものならこうも響かない。藤堂はあっさりと言ってのける。藤堂の交渉の数は卜部の比ではないからなにか手応えがあるのだろうと納得させる。卜部は力を抜いた。隠そうとして緊張してもバレるのであれば無駄な労力だ。
藤堂の指が這う。雨に濡れて境界が曖昧だ。服の上からだと思うのに、それさえ無意味なほど濡れている。藤堂が卜部の上に臥せた。なンすか? なんだか疲れた。そりゃあ、なぁ。ゲンブは年齢に見合わぬ辣腕であり意欲も胆力も衰えない。寝床の方も同様だろう。付き合わされる藤堂もたまったものではない。寝れば? 後始末が必要なら俺がしますよ。でも。眠っちまえばどうされても起きませんよ、きっと。卜部の指が藤堂の腰骨を撫でる。卜部。なに。キス、して。卜部は言われるままに唇を重ねた。吐瀉物や血の臭いは薄まったが代わりに咽るほど雨の匂いがする。流れこむのが唾液なのが雨露であるのかさえもう判らない。卜部はそのまま呑んだ。毒でも好い。そういえば毒を含み続けて分泌する体液が毒になるという話があったな。へぇそりゃあなんの漫画ですか。小説だった気がする。創作ってことでしょ。キスされた。舌だけでなく唾液が流し込まれる。ほんのり熱いそれは卜部の腹でぽぉっと燃えて霧散する。私と寝てくれ。今さら言うことかよ。藤堂の睫毛が震えた。雨露が滴る。駄目か? 誰も駄目だなんて言ってやしないでしょう。
脱ぎ散らかした服は幸運にも持ち去られていない。雨垂れに打たれた衣服を持ち帰る程の切羽詰まった奴も厚かましい奴にもあわなかった。運がいいな。飛沫く雨に打たれながら卜部は藤堂に抱かれた。絡みつく藤堂の裸身ばかりが灼きついた。卜部も灼けた皮膚をしている。白皙ではないのに藤堂の肌が雲母の煌めきで照る。藤堂の方でも卜部の肌へよく吸い付いた。食うなよ。お前が私の肉になるなら食ってもいいな。烟る豪雨は抑制さえ流した。卜部の体には噛み跡と滲んだ血の垂氷が残った。
手の中で泥が潰れた。卜部の爪が泥を掻いて深い溝を刻んでいる。あんた意外と精力あるなぁ。ないぞ、普通だ。抱かれたなりだったじゃねぇか。閣下が私を好くすると思うのか? それはゲンブを認めた卜部を暗に責めた。拗ねたようにそっぽを向く藤堂に卜部は吐息混じりの生返事をした。何故と、言わんな。まぁなんとなく。落ち目であっても枢木ゲンブにはそれさえ挽回するのではないかという期待がある。少なくともそういうことを考えさせるほどの力はあるのだ。好色爺だったら蹴り飛ばしますけどね。価値を認めるのか? 俺は歯車なんだから上層の考えなんか知らねぇよ。ただ利用価値があると思ってる奴らは少なくねぇってだけだ。お前は頭がいいな。馬鹿ですよ。だから大衆に迎合するンんだ。多数決って便利だぜ?
藤堂が寄り添った。触れる肩が熱い。熱でもあるのかと思ったがどうやら違うようだ。卜部の肌へ立てる爪が不平と堪えと涙を顕す。こんな私に付き合ってくれるのはお前ぐらいだ。卜部は返事をしない。藤堂の価値など卜部にどうにか出来る次元ではない。あんたは優秀ですよ。……ありがとう。藤堂の声が震えていた。卜部の濡れ髪を藤堂が引き上げた。顕になる額へ唇を寄せながら押し倒す。蒼い髪だな。あんたは茶色いよ。ぎゅうっと掴まれて含んだ雨露を髪は吐き出す。ぽたぽた垂れる滴は藤堂の手の内から手首の内側を撫でて肘から滴る。それさえ掻き消す雨垂れが二人の裸身を打ち続ける。
「お前はまだ、真っ当だな。だから」
藤堂の声さえ消えそうだ。
「私を、はねつけてくれ」
穢らわしいと。触れるのも嫌だと。私を、嫌ってくれ。卜部は嘲笑った。クックッと喉が震えた。藤堂の指が卜部の喉仏を撫でる。卜部の手も藤堂の喉を包んだ。緊張に喘ぐ藤堂の喉が引き攣れる。卜部の手は喉や胸を撫でた。
「もう、遅ェよ」
藤堂の眦から垂れる滴は雨垂れに紛れた。ぬるい滴に打たれたまま卜部は藤堂を見据えた。卜部の手が藤堂の頬を撫でる。熱く温い滴が卜部の手をたどる。
「俺、もうあんたのこと、好きみたいだ」
見開かれて集束する灰蒼は鉱石のように崇高で、宝石のように濁りを帯びた。奔る滴がぬるくて。それは卜部の肌と同化する。
「もっと、犯せよ」
藤堂が叫んだ。啼いた。ほとばしる激情のまま卜部は突き上げられる。それでいいのだと、識ってる。喉を反らせて喘ぎながら卜部は薄く、嘲笑った。
崇高な花が地面で泥に塗れるのが見えた
それでも花は綺麗で 蠱惑的に誘う
歯車の運命なんて こんなもの
《了》